Hanoi Walk 5th Phú Bình-Bảo Lộc 基督菩薩
前回まで
地図
2014/11/23 Sun
ベトナムの原風景
この写真は、地図の緑の矢印あたりで撮った。ドンナイ省とラムドン省の省境の手前。フーディンから続いた盆地が終わり、谷沿いを山の方に上がっていくような地形になる。「ベトナム」といっていかにも想像するような風景だったからだ。ベトナム人に見せてもそうだと言っていたので、まさにベトナムの原風景であるといってもよいだろう。
しかし、このような光景を車窓から見ることは意外と難しい。この写真はバイク修理屋と電気屋の隙間から撮影した。第2回でも書いたが、街道沿いに家が建つかたちで土地ができていくので、道路を走っていると車窓から見える光景はずっと商店街みたいなものになる。バイク修理屋や電気屋といったその商店街の店の家屋の裏手からは、このような景色が見えているはずなので、たしかにこれはベトナム人にとっての原風景ではあるのだろう。しかし、ただ民家の裏手(トイレとか洗濯場とか)にそうめったに立ち入ることのない外国人旅行者からすると、どこにでもあるのに目に見えない風景となる。
写真のおっさんがそのような感慨を持ってこの景色を見ていたかどうかは定かではない。ちなみにこのおっさんは私ではない。たまたま写っただけで何をしていたのかは不明である。
旅籠にて
省境をこえて、ダムリ(Đạ M’Ri)という道路が交わる所にできた山間の小集落で泊まる。この先は峠道だ。
ラムドン省に入ったあたりから人口密度が希薄になってきた。上の地図の左上にあるカッティエン国立公園は自然保護区として有名で、その道中ぐらいまでは、テーマパークみたいなものがあったりして、人口稠密地域の外縁という感じになっていた。東京で言えば箱根や日光みたいなものだ。
逆にいえば、平地の人口稠密地域の文化圏はここまでということで、この先田舎、ということである。Đạ M’Riという地名からしておよそベトナム語っぽくない。山岳少数民族の居住地に入ってきたのだと思う。
宿は町に1件だけあった。あるだけでもすごいとは思うもの、汚かった。まさに民家の裏手に、レンガとモルタルで作った小部屋が並んでいて、裸電球が灯った(なお、LED電球。)清潔とはいい難いベッドには、虫こそいなかったものの、部屋の向かいの空き地には使用済みのコンドームが捨てられており、この宿の用途を考えるといい気分にはなれなかった。でも一日34.5kmも歩けば大概のことには文句などでなくなるもので、あまり気にせずすぐ寝た。
2014/11/24 Mon
朝起きて撮影したダムリの全景。峠の前の宿場町を早朝に発つ。明治時代の旅行者になった気分だ。
ここから上り坂である。
三宗混交
峠道を中ほどまで登った、道が谷沿いに食い込んだ所に、観音像らしきものがあった。地図でいうとオレンジの矢印になる。写真撮影位置の左手前には2件ほど休憩所兼土産物屋みたいなのがあるので、コーラを飲んで休憩する。
左が昨日の比高図で、緑の矢印はバイク屋と電気屋の隙間から写真を撮ったところ。右は今日の比高図。オレンジの矢印はカルデラ盆地の縁が終わり、中央高原への本格的に山登りになったことが分かる。
道路も、谷に沿ってぐねぐねと曲がる。とはいえ、もともと車両を通すために開かれた道なので、勾配を少なくするために距離を取っているだけで傾斜はそれほどきつくない。箱根ターンパイクと似ている。とはいえ、平地と高原地帯の間のかなり広い無人地帯には違いない。ラムドン省に入ってから少数民族の色合いが少しずつ濃くなってきているが、いよいよ文化圏が違うのだと思う。
あらためて観音像を見てみて、ふと違和感を感じ、近寄って眺めてみることにした。
よく見てみると、キリストだった。
しかし頭の後ろに後光がさしていて、蓮の台座みたいなものに乗って、お線香が上げられているこれはキリストなのか?
顔は一応男性であったが、髭を生やした女性というぐらいの言い方のほうが正しく、体つきというか全体が女性的である。仏教様式で作ったキリスト像というべきなのだろう。その結果、マリア像みたいに見えなくもない。
ここが日本なら、まず間違いなくここには神社かお堂を建てる。建てずにはいられない。私が最初に「ああ、観音像があるんだな」と思ったのも無理からぬところで、それは私が日本人だからだ。なぜ日本人ならそう思うかというと、境界信仰だからだ。「信仰」という言い方は適切ではないかもしれないけど、それは一神教の理屈を持ち込んだ側が悪いのであって、ともあれ境目をみると拝んだり祀ったりしないと気がすまない。
神社というのは人間の居住地とそうでない場所の境目あたりにできる。日の出や日の入りの昼と夜の境目では何かしら神妙な気分になって柏手を打ったり故人を想ったりする。橋の上や下には乞食がいて、寺の裏とか門前町とかの聖と俗の境目には遊女がいる。現在の秩序があって、違う秩序の世界があって、その混交地域は、危険であり、神妙であり、好奇心がくすぐられるものであり、秩序の再生にとって欠かせないものとなる。だから「なにか」を作る。その「なにか」が、その後の歴史で神社になったりお堂になったりする。
峠の中ほどの異なる文化圏の境目。こういうところには「なにか」がなければいけない。そこに白い何かが屹立していれば、私はそれを「観音様だ」と思うわけで、大切なのは、その「何か」である。それが神社であるかお堂であるか観音像であるかは、あまり関係がない。
しかしここは日本ではなくベトナムだ。それでも同じ境界信仰によってたった「何か」には違いない。だから、「何か」が具体的に何の形を取っているのかはどうでもいい。だからキリストでもいいのである。
蓮の台座に乗ってお線香を焚かれている観音様みたいなキリスト。その本体は「神社」
三宗混淆。いや、すごいものだ。いいものを見た。
ポルノと信仰
ここでやめておけばいいのだけど、ここまで書いたら書かざるをえない。
これ、三宗どころではない。
裏手にまわって谷間の岩清水を見て、しみじみ想った。ポルノだ、これは・・・
山の谷間が大きく開脚したところの奥津城に岩が露出してその上を水が流れている。これは女陰である。那智の滝や沖縄の斎場御嶽と同じだ。
ただでさえ生活様式も見た目も違う異民族の文化圏が異なる中間地帯の峠道の真ん中ぐらいにあるというのに、そこにM字開脚した女陰があれば、そりゃ拝みたくもなる。
「観音様の御開帳」だから拝むのではなくて、生殖信仰は境界信仰と同じく基本的な信仰だからだ。
これは当然であろう。子孫繁栄五穀豊穣は、特に動力が人間の筋力だけであり、他から財を買うというのが未発達な状況においては、それはひとえにその根源たる行為、つまり生殖に還元せざるを得ない。男根信仰、女陰信仰というのは信仰の根本的なパターンだ。
ベトナム南部の低地は、今でこそ東アジア的な中国文明の影響が強いが、その昔はヒンドゥー文明の強いところだった。昔と言ってもそんなに大昔ではない。500年程度前の話だ。そこに中国的な文化を持つベトナム人が南下してきて混淆していった。博物館に行くと展示物にあるのがチャンパ文化のリンガばかりである。つまり男根。「本当か? 棒状のものを全部こう言っていないか?」と疑わしいほどにそればかり。
こういうものは文化の下層に残る。これはベトナムではなくミャンマーの話だが、村の中に仏教寺院や教会やモスクがあるのだが、それと並行して精霊崇拝的なものがある。そして、仏教寺院は男性/精霊崇拝は女性、仏教寺院は論理的/精霊崇拝は感情的と見なされている。そして村人は、実際は男女ともどちらにも依存している。これはミャンマーや東南アジアだけではなく、ヨーロッパでも中国でも日本でも見られる構造のようだ。
ホーチミン市は立派な街路樹がある町で、古いものはビルの5〜6階の高さにいたっており、木陰を提供するとか町に緑を添えるといった目的から逸脱していると思えるほどの巨木になっている。夕方になると、そんな屹立する御柱の根本に、街路樹の前の店員が線香を挿して拝む。街路樹をリンガだとみなしているわけではないだろうが、昼間と夜、商売人と生活人、今日と明日、そういった境界において、基層に潜った「何か」が形となって出てきているのだろう。
生殖崇拝は我に性行為のチャンスを与え給えと祈願しているのではなく、境界崇拝は境界の向こう側をお化けの住む世界と恐れおののいているわけではない。それは祈るという行為の普遍的なパターンなのだと思う。大切なのは、祈る対象ではなく祈るという行為そのものである。それはなぜかというと、生殖崇拝や境界崇拝は、世界の構造化を緩めるものだからだ。
生殖はつまるところ因果関係の説明である。今ここにいる私はなぜ存在しているのか、今ここにある食物はなぜ存在しているのか、その因果関係を辿っていくと生殖になる。境界は空間的な構造の説明である。私は何者なのか、何が良いことで何が悪いことなのか、それを説明しようと思うと、どこかに区切り線を入れて、こっちとあっちを対比させる形で論理構造を積み上げていかなければならない。
なんでこんなことをするのかといえば、人間が言語を使うからだろう。言語がなければ認識はない。言語を用いないで因果関係など説明できない。いや、おそらくこれは順番が逆で、言語を発明したから、因果関係も発明せざるを得なくなったのだ。
言語がなければ人間は人間たりえない。それは分かっている。分かっているけど、その因果関係の鎖帷子は、ときどき重くて辛い。だから、その境目に佇んで言葉を使わずに「祈る」のだ。男だとか女だとか、◯◯人だとか△△民族だとか、✕✕教だとか、貧富だとか、健康か不健康か、頭が運が生まれが良いか悪いか、昔の自分があんなことをしたから今の自分がこうなのだとか、そんな言葉で作った世界の重さを、祈りで中和してバランスを取る。取って代わるのではなく、そこで再生する。
だから、そこにある「何か」は、男でも女でもない。キリストのようにも見えるが観音のようにも見える。そもそも観音菩薩は設定上は男である。人種も年齢も分からない。所属もよく分からないで変な服を着ている。低地の道路沿いの世界でも高地で焼き畑やコーヒーを作っている世界でもどちらでもない場所に、仏教ともキリスト教ともその他の何宗だといえないようなものが立っている。
帝国主義者の墓場
そんなことを考えていると、低地方向から、バイクに乗って若い女性が二人現れた。彼女らはキリスト像の前に額づいてお線香をあげた。しばらく何か祈って、バイクに乗って帰っていった。
まだ朝の8時だ。どこから来たのかは分からないが、麓のダムリからだとしてもバイクで20〜30分かかる。何の神様だとも分からないものにごちゃ混ぜの礼拝をしているのではない。
ここは南ベトナム。中国文明の最南端で、インド文明の最東端。どちらもその先は海しかない。フランスはここまで進出して引き返し、アメリカはジャングルのゲリラに返り討ちにあった。ここは、構造化された世界が息絶えて逆転される場所なのだ。だからここにこの像が立っていて、現役で拝まれている。あるべき場所にあるべきものがあるというべきだろう。
国のまほろば
峠を登りきって標高850mの中部高原に入った。今までも峠はいくつか超えたが、それはあくまでカルデラ盆地の外縁の小さな峠でしかなかったが、今回は低地から高地に登ったという感じがする。水平方向にもずいぶんと移動した。峠の頂上で振り返ると、織りなす山々で里の煙も見えない。
登りきると、そこは日本だった。
生垣を見て、ヤマトタケルの歌を思い出した。
倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山籠れる 倭し麗し
もっとも「日本」はいいすぎだ。だけどなんだか日本っぽい。中国の雲南省のあたりから続いている光景で、雲南から南に向かえばここで、東に向かえば日本だ。
カラフルな民族衣装を来た人々こそ見ないが、色黒のマレー系の顔立ちの人々を見ることが多くなった。中年女性から高齢女性の場合は、少数民族の帽子をかぶっている場合が多い。
家の建て方にも高床式の名残がある。昭和30年台の開拓村にでも来たような気分だ。
ベトナム(ホーチミン市)にいて日本と似ていると思うことは多いが、それはあくまで中国文明を介して似ているにすぎない。しかし中央高地の山岳地帯は、もっとダイレクトに似ているように思う。従兄弟か実の兄弟かみたいなものだ。
とはいえ、現実はなかなか難しい。
峠に近いところから、盆地の真ん中のBảo Lộcに近づくにつれて、少数民族っぽい顔立ちの人や、そういう作りの家は減ってきて、低地と変わらないような町並みになってくる。月曜日の昼すぎ。小中学校の下校時間にあたるようで、低地のベトナム人(キン族)であろうと思われる子供たちと、色黒の少数民族であろうと思われる子供たちは、別々のグループを作っている。
ホーチミン市に住んでいると、このマレー系の色黒の人たちをほとんど見ない。いや、ホーチミン市には日本にすらあるエスニックタウンがない。どこの国でも少数民族はナイーブな問題だが、ベトナムでもそうなのだと思う。いや、外国人には見えない。分からないことだらけだ。文献を漁るよりも、とにかくこの目で見てみたい。
ホーチミン市より190.3km
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